ラッシャー・木村、リング内外で異彩を放つ名プロレスラー。彼の名を聞けば、激しい試合の後に披露される独特のマイクパフォーマンスが瞬時に思い浮かぶファンも多いだろう。木村はタフガイな戦士でありながら、コミカルなスピーチで観客を楽しませる希有な存在だった。
そのマイクパフォーマンスには独自のリズムとユーモアがあり、彼の言葉はしばしばファンや対戦相手の心をつかんだ。しかし、彼の魅力はそれだけではない。タフな試合とユーモラスな言動、さらにプロレスラーとしての生き様が織り成す物語が、木村を特別な存在たらしめている。
この記事では、マイクパフォーマンスを演じる以前、国際プロレス所属時代金網デスマッチの鬼とよばれ、後には国際はぐれ軍団としてA・猪木とも名勝負を演じたラッシャー木村に焦点をあて私独自の視点で考察しています。
国際プロレス時代まで
プロレスデビュー
R・木村は1964年力士を廃業し日本プロレスからデビューします。当時のリングネームは本名のままと思われます。当初、相撲界に入ったのは基礎体力作りのためのようです。その後、親方の意に反し相撲部屋を脱走しています。
私的には、生真面目な木村が親方のいわれるまま角界に入り、プロレスラーになりたいと言い出せず脱走とゆう極端な形になってしまったのではないかと考えます。
1966年から状況は一変します。アントニオ猪木と豊登が東京プロレスを立ち上げました。豊登の付き人をしていたR・木村は東京プロレスの旗上げに参戦することになります。しかし、翌67年に東京プロレスは崩壊の憂き目を見ます。
国際プロレス移籍
東京プロレス崩壊後、吉原功が代表をつとめる国際プロレスに移籍し、その後リングネームを現在のラッシャー木村に変更しています。国際プロレス時代は R・木村にとって順調な次期といえそうです。
渡米時にはNWA世界王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦しています。また、覆面をかぶりシャチ横内とジ・インベイダーズとゆうタッグチームを組んでいたとの情報もありとても興味深いです。
1070年ドクター・デスを相手に日本初の金網デスマッチを行いました。
以後、金網デスマッチで幾多の好勝負を演じ、このころから金網デスマッチの鬼と呼ばれるようになります。
人気、実力とも備わった木村は、1975年S・小林が国際プロレスを離脱した後、IWAヘビー級王座を獲得し実質的な国際プロレスのエースとなりました。
マイクパフォーマンス
こんばんわ事件
しかし、またしても所属の国際プロレスは崩壊します。その後1981国際はぐれ軍団として新日本プロレスに参戦しました。
参戦の決意を述べるべくマイクを向けられた木村は元来のまじめな性格が幸か不幸か冒頭に出た言葉が「こんばんわ」です。しかし、これが後の木村には欠かせない「マイクパフォーマンス」の始まりです。
新日本プロレスでは、A・猪木のブックを受け入れざるをえません。A・猪木と国際はぐれ軍団のR・木村、A・浜口、寺西勇と闘うハンディッキャプデスマッチが行われました。なんと、最初に大将格のR・木村がフォールされます。
レフェリーM・高橋の速すぎるカウントが不自然ですがかえってR・木村に気を遣ったと考えることもできます。実際、遠征先でも国際はぐれ軍団三人に対しては特別な配慮をしていたとの話もあるようです。
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全日本プロレス時代
1984年G・馬場のタッグパートナーとして全日本プロレスに参戦します。後にG・馬場に半期を翻すこととなるのですが、このころには木村のマイクパフォーマンスがすっかり定着し話題となります。
全日本代表のG・馬場も複雑な心境だったのかもしれませんが、そんな馬場でさえ木村は兄貴と呼びます。新日本プロレスでファンの憎悪を買った木村にも声援がむけられ新しい居場所がみつかったようです。
国際はぐれ軍団としてともに戦っていたA・浜口、寺西勇は長州力と合流し軍団は解消しています。
このころが実質、木村最後のレスラー生活の場となります。マイクを片手に自分をアピールした木村ですが、持味は派手なパフォーマンスではなく、その撃たれ強さではないでしょうか?
不器用にプロレス団体を渡り歩き、最後にはあまり得意でないパフォーマンスまでみせた木村のひたむきな姿勢が私たちの気持ちのなかに残っています。
まとめ
ラッシャー・木村のマイクパフォーマンスは、プロレス界において一つの象徴ともいえる存在でした。その独特な語り口やユーモラスな物言い、そして時には鋭い批判を交えたトークは、ファンのみならず同業者からも絶大な支持を受けました。彼の持つタフガイとしての強さと、観客を魅了するエンターテイナーとしての才覚は相乗効果を生み出し、プロレスリングの試合を一段と魅力的にする要因と成り得ました。また、彼のパフォーマンスを通じて伝えられる温かさや優しさは、彼がただの強者ではなく、愛される存在であることを証明しています。
日本プロレスに始まり、東京プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスと日本のメジャー団体のすべてのマットを渡り歩いています。もちろん日本で唯一の存在です。
最後にたどり着いた、彼のマイクパフォーマンスは一度聴けば忘れられないインパクトを持ち、これからの世代にも語り継がれていくことでしょう。木村の残した足跡は、プロレスの枠を超えて多くの人々に勇気と感動を与え続けます。
ラッシャー・木村という人物の存在が、プロレス界だけでなくエンターテイメント全体に大きな影響を与えたことは間違いありません。彼の歴史を振り返ることで、プロレスの魅力と、マイクパフォーマンスの真髄を見ることができます。