木戸修という名前を聞いて、プロレスファンの心に灯るのは彼の独自の技「キド・クラッチ」でしょう。彼のキャリアはカール・ゴッチの門下生として始まり、多くのファンに「いぶし銀のレスラー」として親しまれました。木戸の技術は深い知識と絶え間ない努力の産物であり、そのスタイルは他のレスラーには真似できない独自のものでした。
この記事ではプロレスラーの木戸修についてデビューから一貫したファイトスタイルを貫いた木戸修の人となりについて私独自の視点で考察しています。
日本プロレスから東京プロレスヘ
日本プロレス入門
木戸は1968年日本プロレスに入門し、翌1969年にデビューしています。当初は後のレフェリーとなるユセフ・トルコの付き人をしていました。
木戸には同じくプロレスラーの兄 木戸時夫がいます。時夫は練習中の怪我で引退を余儀なくされ、兄の意志をつぐことが 木戸修 のデビューのきっかけだったようです。
日本プロレスはG・馬場、A・猪木の2エースで興行的に大成功を納めていました。しかし、日本プロレスの経営陣とうまくいかず猪木は、会社乗っ取りの汚名を着せられ日本プロレスから追放されます。
木戸はその後、猪木が立ち上げた東京プロレスに藤波辰巳等とともに移籍します。
同様に、経営陣に不信感を抱いていた馬場は全日本プロレスを旗揚げします。
カール・ゴッチの門下生
当初ライバルとされていた藤波辰巳はスター性もあり人気レスラーとなります。水をあけられた木戸ですが、ストイックな彼は、カール・ゴッチ道場の門をたたきます。
カール・ゴッチはご存知ですね。プロレスの神様と呼ばれA・猪木にジャーマンスープレックスホールド、卍固めを伝授しています。
カール・ゴッチから直接指導を受けるとともに真摯にプロレスに向き合う木戸修の姿勢はゴッチに通じるところがあり息子のようにかわいがられます。
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キド・クラッチ
UWFに参加
木戸の寡黙な気質は新日本プロレスとは相容れず、前座的な立場に追いやられていたのですが、そんな折、前田日明がUWFを設立します。
1984年木戸修も参加します。初代タイガーマスクの佐山聡も シュートと呼ばれるファイトスタイルを確立すべく参戦しています。時代の流れにも合致したUWFで徐々に木戸の評価も上がり職人肌の木戸はこのころから「いぶし銀」と呼ばれました。
彼の気質は髪の毛にも現れています。激しい動きをするプロレスの試合でも木戸の髪型は崩れないのです。さらに、このようなエピソードも 後にグレート・ムタとなる武藤敬司は、何と木戸修の顔面に毒霧を吹きかけてしまったのです。その後しばらく木戸に口も聞いてもらえなかったそうです。
新日本プロレスへ復帰
このころには、脇固めを木戸流に改良した「キド・クラッチ」も彼のオリジナルホールドとして定着しています。
キド・クラッチは木戸修のオリジナル技で、フォール率が極めて高い。ボディスラムやサイドスープレックスなどを仕掛けてきた相手に対して相手に背中を向けた状態から片腕と片足を捕らえ、背中越しにエビ固めに捕える。相手が屈んだ状態のとき脇固めを仕掛け、前転で逃れようとした相手に仕掛けるなど切り返しのバリエーションが数多く存在する ※Wikipediaより
UWF崩壊後、前田とともに新日本プロレスに復帰した木戸はIWGPタッグ王座を手にしています。このころが木戸修の最盛期でしょうか?2010年に引退しています。寡黙に、プロレスと向き合った木戸修ですが病には勝てませんでした。
彼がリングで見せる技の数々は、古典的且つ革新的であり、その背景にはカール・ゴッチから受け継いだプライドと技術がありました。しかし、木戸修の本当の魅力や彼がどのようにして「キド・クラッチ」を完成させたのか、またその技がどのようにしてファンを魅了し続けているのか、まだまだ語り尽くせないエピソードがたくさんあります。ただ、寡黙に自身のファイトスタイルを貫いた木戸修の姿勢を忘れることはできません。
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