この記事では、女子プロレス界の救世主ともいえるブル中野について書いています。彼女は全日本女子プロレスで女帝と呼ばれWWWA世界王者にもなりました。今はなんと、米国プロレス団体「WWE」から殿堂入りを認められています。そんなブル中野のレスラー生活と女性としての葛藤などを私独自の視点で考察してみました。
デビュー当時
女子プロレス入門
ブル中野(本名青木恵子、旧姓中野)は母親の影響で子供の頃からよくプロレスを観ていました。女子プロレスラーに憧れデビューする選手が多い中で母親が好きなアントニオ猪木に憧れを持っていたようです。
もともと、柔道の経験はあり、体格的にも恵まれていた彼女は1980年全日本女子プロレスの練習生となります。その後、プロテストに落ちたものの、三度目で合格し1983年に正式デビューします。リングネームは本名の中野恵子です。
長与千種の付き人
1983年新人王トーナメントで優勝、1984年には全日本ジュニア王座を獲得するなど順調なレスラー生活が始まります。
同時に、長与千種から可愛がられ付き人となりました。垂れ目で愛嬌のある顔立ちで「パンダちゃん」のニックネームをつけられるなど新人時代の微笑ましいエピソードがあります。
極悪同盟ヘ
ダンプ松本
全日本女子プロレス界で注目される存在となった中野はダンプ松本から「極悪同盟」に入って一緒にやらないかと声をかけられます。ヒール役は嫌いな彼女は何度も断りますが、最終的には先輩のゆうこと、従わざるをえません。
1985年、正式に極悪同盟入りした彼女はリングネームを「ブル中野」にするとともにヌンチャクを使用するなどファイトスタイルも一変させます。
次第に、全日本女子プロレスのメインイベンタ-に成長した彼女は体重も100キロを超え貫禄も増します。体重を生かしたコーナーポストからのギロチンドロップは彼女の必殺技となりました。さらに、一回転してから落とすローリングギロチンドロップは彼女のオリジナルホールドと言えます。
半モヒカン
それでも、内心ヒールになりきれずにいたようです。そんな中野をみたダンプは、なかば強制的に髪をモヒカン刈りにするように仕向けます。半モヒカンなのはまだ半人前だからとゆう意味だそうですが、髪を切られた彼女は、試合後一人ホテルの部屋で泣いたと後に語っています。
しかし、髪を切った中野から迷いは吹っ切れました。極悪同盟解散後は自身をリーダーとした「獄門党」を結成し、WWWA世界王座を獲得しました。以後三年間その王座を守り抜きます。このころの髪型は後の彼女のトレードマークのような逆立てヘアーとなります。
既にベビーフェイス、ヒールの枠を超え、全日本女子プロレスの屋台骨を支えㇽまでに成長しています。冒頭にも書きましたが世界最大のプロレス団体「WWE」は日本女子プロレス界初となる殿堂入りを認めています。引退後なんと27年後のことです。
しかし、今日のブル中野があるのはモヒカン刈りにされ泣いた日があります。彼女の女性としての心の葛藤を乗り越えた日が後のブル中野を大きく飛躍させました。