2代目タイガーマスク三沢光晴の苦悩とノア設立の明確なビジョン

プロレス

2代目タイガーマスク三沢光晴。初代タイガーマスク、佐山悟に続く重圧の中、彼はどのようにして自身の道を切り拓いていったのか。全日本プロレス脱退後、苦悩の末にたどり着いたプロレスリング・ノア。この記事では、2代目タイガーマスクとしての重荷を背負い続けた三沢光晴の葛藤と、プロレス界に新しい風を吹き込んだ彼の偉大な足跡を紹介します。

二代目タイガーマスク誕生まで

全日本プロレス入団

子供の頃からスポーツが得意だった三沢光晴は高校時代にレスリング部に入り国体で優勝しています。卒業後1981年全日本プロレスに入団しています。浦和競技馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューしています。

1984年、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出ます。当初は越中・三沢ともに本名で試合に出場していたが、後に越中はロングトランクスに「必勝」と書かれた鉢巻を巻いて『サムライ・シロー』、三沢は赤ラメのジャンパーに白いラインが入った赤のロングタイツという出で立ちの『カミカゼ・ミサワ』というリングネームで活躍していました。

間もなく、G・馬場はメキシコに遠征していた三沢光晴に帰国の指示を出します。タイガーマスクとしてデビューさせるため、極秘のうちに準備は進められました。初代タイガーマスクが大成功した新日本プロレスへの対抗心が強くうかがわれます。

三沢タイガーマスクの誕生です。もともと、運動神経がよく、飲み込みの良い三沢にはこのようなエピソードがあります。G・馬場談:「受け身の音を聞いて三沢が練習しているとわかった」

タイガーマスクとしての重圧

初代タイガーマスクこと佐山悟はプロレス界に革命を起こしました。彼の持ち前の高い身体能力と斬新な技の数々は、タイガーマスクというキャラクターと不可分の存在となり、プロレスファンを魅了します。その後、2代目タイガーマスクを襲名した三沢光晴は、この重大な役割を担うこととなりました。

タイガーマスクとしての重圧は計り知れないものであり、佐山悟が築き上げた伝説に対する尊敬と、それを超えるべく奮闘する姿勢が必要です。二代目としては、常に先代の成果を基準にされ、自分のプロレスライフを展開していかなければならないのです。

ファンはもちろん、業界内でも、先代の実績に匹敵するか、あるいはそれを超えることができるかどうか、常に注目が集まります。三沢光晴に重く圧し掛かったのは独自のキャラクターやスタイル作りです。先代の佐山聡とはウェイトに違いがあり、入場時にコーナーポストに上がることなどはしていません。

更に、佐山が得意とした回転して相手に蹴りを見舞う、ローリングソバットは使わず、ランニングエルボーバットなど小気味良い技でファンを魅了します。

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プロレスリング・ノアの設立

全日本プロレスからの離脱

三沢は、自身の理想とするプロレスの世界を立ち上げるべく、当時所属していた全日本プロレスを離れ、新たなステージとしてプロレスリング・ノアを立ち上げました。

1999年、G・馬場亡き後、後継の社長として全日本プロレスをけん引します。大きな問題は、馬場夫人の元子との関係でした。団体内で大きな権限を持っていた元子は会社の株式も所有しています。会社を去りましたが、三沢光晴に賛同する選手は多く、新団体「プロレスリング・ノア」を立ち上げます。

ジュニアヘビー級への思い

「プロレスリング・ノア」の立ち上げには小川良成が参加します。全日本プロレス当時のタッグパートナー秋山準との関係は解消しジュニア・ヘビー級の小川良成とのコンビで世界タッグ王座のベルトを獲得しています。その後の団体は ジュニアヘビー級の選手が多く活躍しています。身長も170cm代のレスラーがタイガーマスクの身のこなしを受け継ぐかのごとく、現れました。

なぜ、三沢光晴はジュニアヘビー級にこだわったのでしょうか?かつてタイガーマスクとして佐山悟と比較されたことや、G・馬場路線から離れ新しい団体を成功させるには必要なスタイルと考えていたのではないでしょうか?

プロレス界での成功と名声を築いた後も、性格的にストイックな面のある三沢光晴、自身の理想を追い求めるが故のものだと思います。

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