ビル・ロビンソンの最後の挑戦:孤高なスタイルからヒール転向の背景

プロレス

かつて、日本プロレスに対抗する形の国際プロレスの舞台で、その屋台骨を支え続けたのがビル・ロビンソンです。彼は日本ではじめてフロント・スープレックスを披露しました。後のビル・ロビンソンの代名詞ともなる「人間風車」です。日本国内はもとより、世界各国のリングを舞台に繰り広げたその戦いは、観客に強烈な印象を与え続けました。この記事では、ビル・ロビンソンが国際プロレスに与えた影響と、一時的ながらヒールに転向したビル・ロビンソンの心理の背景に迫ってみます。

国際プロレス時代

来日当時

ビル・ロビンソンは若干19才でプロデビューしています。当時、蛇の穴と恐れられたビリー・ライレージムに所属し、プロレスの神様と言われたカール・ゴッチも同事務所にいます。後にカール・ゴッチと演じた名勝負は忘れられません。

1968年国際プロレスに初来日し、外人のエースとして活躍します。メジャー団体の日本プロレスの興業が人気を博するなか、エース的なレスラーが乏しい国際プロレスには無くてはならない存在でした。

この時、ビル・ロビンソンの代名詞とゆうべき人間風車:ダブルアームスープレックスを披露しています。エースレスラーとして活躍する一方、国際プロレスの中堅レスラーである寺西勇、アニマル浜口、マイティ井上等の指導役も買って出ています。

一方で、ビル・ロビンソンと好勝負を演じられる相手には恵まれず後に新日本プロレスに転向し、A・猪木と演じた好勝負が彼の日本でのベストバウトではないでしょうか?

ファイトスタイル

ビル・ロビンソンは、国際プロレスのリングを飾った、異例の外人レスラーでした。技巧派としての彼のスタイルは多くのファンを惹きつけました。彼の戦い方は、「反則嫌い」という鮮明な姿勢がありました。タッグを組んだ相手であっても反則技をつかえば、許すことはできません。日本側のレスラーとともにタッグパートナーに攻撃を仕掛けてしまします。

この姿勢は、単に反則を避けるだけではなく、技術と力で相手に勝つというプロレスの本質をファンに伝えるものでした。ビル・ロビンソンの登場によって、プロレスの見方が変わり、技術と正義の重要性が強調されるようになりました。伝統的な図式の日本人:ベビーフェイス、外人:ヒールとゆうスタイルがが崩れたのもこの頃です。国際プロレスに新風を起こし後には、新日本プロレス、全日本プロレスで活躍したのは有名ですね。

ビル・ロビンソンの挑戦

ベルトに挑戦

ビル・ロビンソンが活躍した時代には、NWAやAWAといった団体が世界のプロレス界をリードしていました。もともと、AWA圏で活躍していたビル・ロビンソンはチャンピオンバーン・ガニアに挑戦し「時間切れ引き分け」の好勝負を演じています。同様に、世界の最高峰のNWAのベルトにも挑戦しD・F・ジュニアと「時間切れ引き分け」とゆう結果を残しています。

新日本プロレス来日時にはA・猪木とNWFのベルトを掛け時間切れ引き分けの好試合を演じています。全日本プロレスでは一時的にPWFのベルトを手にしましたがキラー・トーア・カマタに破れたG・馬場にベルトを戻すための、橋渡しとゆう感が否めません。

ロリポップを10日間無料でお試し 広告

ヒールに挑戦

ビル・ロビンソンに不足しているものがあるとすれば、歴代の世界王者が、持ち合わせている狡猾さではないでしょうか?ビル・ロビンソンの実直な気質故、世界の最高峰へ昇り詰めることができずにいたようです。

そんなビル・ロビンソンも、一度だけ心変わりしたかの如くヒールに転向したことがあります。1982年カナダのモントリオールにて口ひげをたくわえリングに登場したことがありました。

この頃獲得したモントリオール版のインターナショナルの王座が最後のベルトとなります。その後ベビーフェイスに戻りましたが、ヒールターンしたことはベルト同様、ひたすら孤高さを貫いたビル・ロビンソンの最後の挑戦だったのではないでしょうか?

タイトルとURLをコピーしました