タイガ-マスクのデビュ-戦から現在までの佐山聡を考える

プロレス

プロレス界の伝説的存在であるタイガーマスクこと佐山聡。彼のデビュー戦から現在に至るまでの軌跡は、数多くのファンにとって感動と憧れの源であり続けています。1976年、プロレスラーとしての道を歩み始めた佐山は、1981年に「タイガーマスク」としてその名を世界に轟かせました。

その華麗なファイトスタイルと革新的な技術は、プロレスの世界に新たな風を吹き込みました。しかし、彼の影響はリング内に留まらない。

この記事では1981年にタイガーマスクとして衝撃的なデビューをはたした佐山聡についてデビュー当時の背景と現在までの佐山聡について私独自の視点で考察しています。

タイガーマスクデビュー

デビュー時の覆面

海外でサミー・リーのリングネームで活躍していた佐山悟が、1981年帰国しタイガーマスクとして衝撃的なデビューをはたします。

サミー・リーのリングネームはブルース・リーを意識したもので、既に後のローリング・ソバットのもととなる回し蹴りや飛び技を駆使し現地でも人気がありました。

新日フロントの要請とあらば、佐山としては受けざるをえず、急遽の帰国となったようです。経緯はさておいても、アニメのヒーローであったタイガーマスクが現実に現れたわけです。

表向きは正体不明のタイガーマスクの登場であり、当時のリングアナウンサーと解説席の山本小鉄のコメントが、演出を盛り上げます。

デビュー戦で佐山が使用した覆面はスタッフが総出でこしらえたもので、少々不格好で以後使用されることはありませんでした。突然のデビューの背景もさることながら、覆面の発注自体を忘れていたとの話もあります。

対戦相手ダイナマイト・キッド

既に、ダイナマイト・キッドとは対戦経験もあり体系的にも、ファイトスタイルからしても、デビュー戦を盛り上げる相手としては的確です。

当時の日本プロレスは伝統なストロングスタイルを貫いており、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先のメキシコで培ったルチャリブレの空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、空前のタイガーマスクブームを巻き起こしました。

タイガーマスクの試合を中継したの視聴率は、一挙に上昇しえ地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。

タイガーマスクのファイトスタイルは四次元的といわれ、特に回点して相手に蹴りをいれるローリングソバットは佐山ほどの脚力と運動神経を持ち合わせていなければできるものではありません。

ちなみに、二代目タイガーマスクとなる三沢光晴はローリングソバットはマスターできなかったとの話があります。

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引退後、ダイナマイト・キッドは闘病生活をおくるのですが佐山聡との交友は続いていたようです。それほど両者にとっても印象的な試合だったのではないでしょうか?

現在までの佐山聡

作られたヒーロー

佐山聡がタイガーマスクとして登場してから今日に至るまで、彼のキャリアは数多くのファンに感動を与え続けてきました。デビュー戦での衝撃的なパフォーマンスから、その独創的なファイティングスタイルまで、佐山はプロレス業界における革新者としての地位を確立しました。

興行的には大成功のタイガーマスクでしたが、佐山聡自身が納得していたのか疑問が残ります。生真面目な佐山の事、当時の新日本プロレスとの間で鬱々とした日々を過ごしたのではないでしょうか?

諸事情あったにしろ人気絶頂の1983年8月に電撃引退し、後に総合格闘技のシュートティングを創設してファイトスタイルを一変させたのが佐山の本来の方向性を表している気がします。

佐山聡の功績

この記事を通じて佐山聡、そしてタイガーマスクとしての彼の軌跡を辿りました。デビュー戦から引退、そして現在に至るまで、プロレスの世界において数多くの伝説を築き上げてきた彼の生涯を振り返ることは、まさに時代を越える英雄の一幕を見るようです。

彼が発表したパーキンソン病との闘いは、多くのファンに衝撃を与えましたが、それでも彼の闘志は衰えていません。佐山聡のたゆまぬ努力と情熱は、今後も多くの人々に影響を与え続けることでしょう。彼の人生とキャリアからは、挑戦を恐れず、常に前進する重要性を学ぶことができます。佐山聡の物語は、プロレスファンだけでなく、すべての人にとって、勇気と希望の源泉となっています。

佐山引退の後、歴代のタイガーマスクが現れましたが初代の佐山悟を超えたとの印象はなく、改めて佐山悟の大きさが感じられます。病気とも戦って速く元気な姿を見せてほしいものですね。

 

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